『春庵の樹木たち』について

春庵には季節を彩る様々な木々が植えられています。
この記事は「春庵だより」の初期デザイン時代(当初はA3版でした)、当法人本部長に不定期で
掲載していただいた文章をホームページ用に再構成したものです。

春庵の樹木たち

【真弓(まゆみ)】
~2009年11月号より

 「しら真弓 石邊の山の 常磐なる 命なれやも 恋ひつつをらむ」万葉集・詠人不詳。
(白い真弓の木の茂る石邊の山のように 不変の命とでもいうのか そうでもないのに 逢いもせず ただいたずらに恋いこがれている このせつなさよ)
マユミ(真弓、檀、檀弓)は、ニシキギ科ニシキギ属の落葉低木で、中国や朝鮮半島、日本の山林に自生する。
弾力のある枝は折れにくく、弓の材料とされたのが名前の由来となり、弓木とも呼ばれる。
古より人々の生活に深い関わりを持つ木だったのだろう「万葉集」「古今和歌集」「源氏物語」などに多く登場してくる。
五月から六月にかけて四枚の花びらをもつ白っぽい緑色の小さな花を咲かせるが果実ほどには目立たない。
秋になると四裂のランタンのような小さな青い果実は淡紅色に色付き、熟すると果皮が四つに割れ、中から光沢のある赤い実が飛び出してくる。
このかわいい実は葉が落ちた後も枝に残り、小鳥たちを呼んでくる。
紅葉や果実を楽しむ庭木として親しまれ、盆栽として楽しむ人も多い。
朝夕の冷気が春庵の木々たちの葉を色づかせ、その紅葉も風に舞いながら散り始めてきた。
中には来年に向けて新しい蕾を付けているものもいる。
このような樹木たちの移ろいを見ていると、癒しの詩人、祈りの詩人と呼ばれた坂村真民さんの詩が浮かんでくる。(Z)


一本の道を     坂村真民
木や草と人間と
どこがちがうのだろうか
みんな同じなのだ
いっしょうけんめいに
生きようとしているのを見ると
ときにはかれらが
人間よりも偉いとさえ思われる
かれらは時がくれば
花を咲かせ
実をみのらせ
自分を完成させる
それにくらべて人間は
何一つしないで終わるものもいる
木に学べ
草に習えと
わたしは自分に言い聞かせ
今日も一本の道を歩いて行く

【花梨(かりん)】
~2009年10月号より

カリンは中国原産で、バラ科ボケ属の落葉高木である。
高さ五~十メートルに達する。
語呂合わせで「金は貸すが借りない」と縁起を担ぎ、カシの木とカリンの木を植えると家が栄えると言われ、庭木として植えられることが多い。
新緑や紅葉も美しいし、花も実も楽しむことができる。
樹皮は緑色をおびた褐色で、古い幹では皮がはげ落ちて不規則な斑紋が残る。
材質は緻密で堅く光沢のある赤褐色が美しいので、床柱や高級家具として使用される。
花は四~五月に咲き、同じ属のボケの花によく似ている。
ボケは小枝に棘があるがこの木にはない。
果実は西洋梨に似ているが酸味が強くてかたいため生食には適さないので、カリン酒や蜂蜜漬、ジャム等に加工して食される。
昨年は、春庵の果実で、入所者Tさんの家族が作られたカリン酒をいただいた。
薩摩切子のグイ飲みに氷を入れて注ぐと琥珀色の薬酒は最高の美味であった。
カリンには「カリンポリフェノール」という成分が含まれているので、喉の炎症を鎮め、風邪や喘息の咳を取り除くと言われている。
今度はカリンジャムに挑戦してみようかと思っている。
岸川饅頭をスライスしてトーストにし、カリンマーマレードジャムをつけて食してみたい。
今年のシルバーウィークは五連休だった。
我が家の世帯主は関西の旅、奈良のお土産に「唐招提寺かりん蜂蜜のど飴」を持ち帰ってきた。
「蜂蜜は鑑真和上が日本に始めて伝えられたと言われています。上質の蜂蜜はカリンエキスを加えて伝統的な技を持った飴職人が丹精込めて創り上げたのどにやさしい飴です。」と品書きが添えられている。
鑑真和上は、苦節十年六度目の渡航で、西暦七五三年十二月二十日に鹿児島県坊津町秋目浦に着き、太宰府を経て奈良に入り、唐招提寺を開き、我が国の仏教の基礎を築かれた僧だ。
井上靖さんの『天平の甍』に詳しく描かれている。
井上靖さんには、昭和六十年と六十三年の湯島聖堂釈奠記念講演でベストセラーとなった『孔子』取材旅行の話や孔子様の生きられた時代背景などのお話を伺うことができた。
そして、平成二年十一月二十三日の釈奠の時は、宇野精一先生のご配慮により面会の約束を得て上京した。
同年十一月始めに、夕刊新佐賀社が企画して嘉瀬町の森林公園に鑑真和上上陸記念碑が建立され、碑文は井上靖さんの書になるものだった。
旧知のN記者から除幕式の写真をお預かりしていた。
聖堂の式典が終わり、財団法人斯文会の理事長室で井上さんと対面した。
預かっていった写真を差し出すと、ふみ夫人が怒り出され、「主人に史実とは異なることを書かせて」と強い口調で叱責された。
しかし、井上さんは、穏やかな笑顔で「Zさんは、写真を届けてくれただけで記念碑とは関係されていない方だから、碑文にも嘉瀬津に上陸されたとは書いていないし」と奥様をなだめられ、「春が来て暖かくなって医者の許可がでたら、是非佐賀へ伺います。記念碑や嘉瀬津の場所も見てみたいし、多久の聖廟にも参詣します。」と仰っていただいた。
井上さんは癌センターへ入院中だった。
翌三年一月二十九日、テレビから流れる井上靖さんの訃報に唖然とした。
お会いして二ヶ月ばかりしか経っていなかった。
春になればご案内できると楽しみにしていたのに。(Z)

【櫟(くぬぎ)】
~2009年9月号より

クヌギの名称は「国木(クニギ)」が転訛したものとされ、昔から私たちの生活に最も身近な樹木であった。
ブナ科コナラ属の落葉樹で、漢字では「椚」「橡」とも書く。
樹高十五メートル、直径六十センチになる。
葉は秋に黄葉し、その後枯れ葉になっても春先まで枝についているので、今年の春には春庵の施設長が木が枯れていますと報告してきた。
これもこの木の特徴である。
樹皮は暗い灰褐色でコルク状に縦の割れ目ができる。
花は雌雄同種で四月から五月頃に咲く。
雄花は黄色い十センチ位の穂状花序を枝いっぱいにぶら下げ、雌花は葉の付け根に小さな赤っぽい花をつける。
雌花は受粉をしてもその年には実にならず、翌年の秋に成熟しドングリになる。
ブナ科の樹木は一般にドングリの木と呼ばれているが、クヌギドングリは、まん丸でくりくりとした目をドングリ眼と例えられるようにほぼ球形である。
この実でヤジロベイやコマを作って遊んだ記憶がある人も多いだろう。
ドングリの帽子「殻斗(かくと)」のまわりには細く尖って反り返ったトゲ状の鱗片があるので他のドングリと見分けることができる。
子供の頃は、クヌギの樹液を求めて集まって来るカブトムシやクワガタを捕りに山に入るので、クヌギの所在はほとんど知っていた。
秋になると実を拾って学校に持って行った。
全校生徒で集めるのですごい量になる。
栗虫として釣具屋に売り、学校の備品代にしていた。
現在のベルマークのようなものである。
冬に向かって山仕事は、原木を切り倒し、椎茸栽培の榾木にしたり、薪割りをして炊事や風呂を沸かす薪や炭材にし、落ち葉を掻き集めて腐葉土を作り肥料にしていた。
多くの思い出を持つクヌギだが、私にとって一番は炭である。
クヌギ炭は、切り口がまるで菊の花が咲いたように放射状に焼き上がっている。
茶道ではこの炭を用いる。
バーベキュー等で使う炭は煙が出たり臭いがするが、茶道炭はそのようなことはない。
二度焼きをしてある。
高校時代に轆轤を回し陶器を作っていたので、若い頃はお茶を習っていた。
師匠は県内で唯一しかも最初の名誉師範大瀬宗鶴先生である。
炭にも、胴炭、輪胴、丸毬打、割毬打、丸管等、それぞれの炭に名前があって、並べる手順や場所も決まっていた。
炭手前など忘れてしまったが、「たった一碗のお茶のやりとりだが、大切なのは心のやりとりである。無駄を省き、失礼の無いように。」
「夏下冬上(かかとうじょう)夏は種火を下に、冬は上に。これは火がつきやすいようにだけではなく、夏は涼しく、冬は暖かく見えるように、客にたいする思いやりの心です。」
今も先生の声が聞こえてくる。(Z)

【百日紅(さるすべり)】
~2009年8月号より

ミソハギ科サルスベリ属の落葉高木で高さ五~十メートルになる。
七月から九月にかけて三ヶ月約百日間に亘って花を咲かせ続けることから百日紅(ヒャクジツコウ)の漢字が使われ、木肌が滑らかで木登り上手な猿も滑り落ちそうなのでサルスベリと呼ばれるようになったようである。
若い頃はサルスベリの一寸変わった木肌に興味はあったがあまり好きな花ではなかった。
最近は年とともに好みが変わっていくのを実感している。
食に対してもそうであるが、異性についてもである。
老いとともに自分が失ったものに惹かれるのだろうか、若い人のキラキラと輝く瞳や屈託のない笑顔に魅せられドキッとさせられることがあるが、この花にもそうである。
「炎天の地上花あり百日紅」(高浜虚子)真夏の真っ青な空を見上げれば、灼熱の太陽に照らされ、赤や白の花が咲き誇る様は小さな妖精のようだ。
この妖精たちは空に向かって円錐状の塊で花を咲かせるのでひとつひとつの花は見えづらい。
手元に引き寄せて観察すると、繊細なフリルの花弁が、黄色い蕊の周りに放射状に並ぶ、本当はこんなに可憐な花だったのだと、若い頃はあまり好きではなかったこの花が無性にかわいらしく思えてくる。
この可憐な花が百日間も咲き続けているのでは無い。
ひとつの花が終われば次の花が咲き、次々に別の花が咲き続けて百日間咲き続けているように見えるのだ。
「散れば咲き散れば咲きして百日紅」(加賀千代女)この句はなんと上手く詠んでいるのだと感心させられる。
春庵には紅一本、白一本の木があるが、ともに成長がよくない。
我が家にも一本ある。二十数年前になるだろうか、先代理事長・周甫先生から、お前が好きだと言っていたからと十数センチの小さな鉢植えの苗木をいただいた。
私は忘れていたが何かの話の中で好きだと言ったのだろう、先生が自宅のサルスベリの一枝を挿木してくれていたのである。
立派に育ち、今では四メートルを超えて、玄関先に見事なワインレッドの花を咲かせてくれる。
朝夕にその樹木の下を通るときに、先代の優しさを思い出し、いつも見守っていただいているような感謝の気持ちになる。
私の大切な樹木だ。(Z)

【楠(くす)】
~2009年7月号より

肥前風土記に、神話のスーパースター日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が今の佐賀を訪れた時、楠が大きく茂っている様子を見て「この国は『栄の国』と呼ぶがよかろう」と述べたと記されている。
これが地名の由来という説があり、佐賀の県木は楠、県花も楠の花となっている。
佐賀とクスノキを語るときに忘れてはならない「楠の木おばさん」福田ヨシ先生の話がある。
明治二十九年川副町に生まれ、昭和二十一年に「わか葉寮」を設立、昭和二十五年「みゆき会」(後の母子連盟)を創立、初代会長として母子福祉資金の貸付、母子寮の設立、母子相談所の設置など母子家庭と社会福祉のために活躍し、昭和二十六年に県初の女性県議会議員となられた方である。
終戦直後、国への納税に困った旧藩主の鍋島家が県庁前の老楠群を売却、業者が伐採しようとしたときに、楠の根元に座り込み「この楠を切るなら私を切ってからにしんさい」と我が身を盾にして楠を守った。
この楠は昭和二十八年県天然記念物に指定され、県庁西堀端遊歩道脇「わか葉寮」跡に「楠の木おばさん」の石碑が建てられている。
私たちが生活している大地は阿蘇山の火山灰で成り立っている。
九州の中央部にある阿蘇カルデラは、四回の大噴火によって形成されている。
三十万年前に最初の噴火があり、最大規模の4回目の噴火は九万年前である。
この時の噴火で噴出された火砕流「阿蘇4火砕流」は、雲仙普賢岳の約百万倍の規模だったと推定され、その火砕流は九州の山並みをジェットコースターのようなスピードで乗り越えて九州のほぼ全域を埋め尽くし山口県まで達している。
この地域は数時間で焦土と化し、生態系はすべて壊滅。
上空に噴出された火山灰は偏西風にのって日本列島全域に降り注ぎ、北海道東部でも火山灰層を確認することができる。
平成五年に上峰町八藤丘陵において、県営圃場整備の工事中に、阿蘇4火砕流の地層深さ三メートルのところから埋没林が発見された。
樹齢約八百年と推定される直径一、五メートル、長さ二十二メートルの松の巨木をはじめとして、ブナ属、コナラ属、クマシデ属などの樹木が多数出土したが、クスノキ科の植物の痕跡は見つかっていない。
クスノキは、西日本に広く見られるが、自然植生の原生林では見かけることが少なく、人里近くに大木が多くある。
古来より日本に自生していたものかどうかは疑問とされ、中国南部などからの帰化植物ではないかとも言われている。
推測であるが、クスノキは、徐福伝説にみられるように中国からの渡来集団により稲作文化とともに我が国に伝えられ、弥生の人たちが集落の一番大切な社の周囲にクスノキを植え、やがてこの樹木は稲作とともに全国にひろがっていったと私は考えている。
春庵の楠はまだ幼木だが、やがて神が宿るような巨木となり、この広場に大きな樹陰をつくってくれるだろう。(Z)

【山桃(やまもも)】
~2009年6月号より

私は、山で生まれ、山に育てられてきた。
昭和二十年代の後半から三十年代の前半は戦後復興の兆しはあるものの地方の山間部はまだまだ貧しく、菓子などのおやつを買ってもらう事は殆ど無かった。
近くにお店も無かったし、家にもそんな余裕は無かったのだろう。
しかし、山に入れば桑の実、ヤマモモ、猿梨、アケビ等、美味しい木の実には事欠かなかった。
黄金色に麦が実り、藁焼き、田起こしが終わり、水田に水が張られ、緑色の早苗が植えられる、一年のなかでも季節の移ろいが最も感じられるこの頃になると、懐かしく想いだすのがヤマモモの味だ。
学校帰りに友達と木によじ登り、ヤマモモの熟した果汁で手指や口の周りを真っ赤に染め、挙げ句の果ては、実の投げ合いをしてはシャツまで汚し、母親によく怒られた。
半世紀も時が過ぎたが昨日の事のように想いだされ、そして愛情をいっぱい込めて叱ってくれる人がいなくなった人生が堪らなく寂しくなる。
ヤマモモは、ヤマモモ科ヤマモモ属の常緑高木で高さ十メートルから二十メートル、幹径は一メートルにもなる。
株は雌雄異株で、本州以西、四国、九州、台湾、フィリッピン、中国南部などの温暖な地方の山地に自生する。
煙害や潮風、害虫にも強く、庭木や公園樹、街路樹として多く植栽されている。
果実の表面は粒状になり果肉の中央に大きな種がある。
甘酸っぱく一種独特の風味があるので、人によって好みが分かれる。
四国の各県や和歌山県などでは果樹用に改良した樹木が盛んに栽培され、果実は勿論、ジャムやシロップ漬、ゼリー、ジュース、ワインなど果実酒に加工され販売されている。
春庵の庭には、四本の木があるがすべて原生種の雌木である。
近くに雄木は見当たらないが実をつける。
雄花と雌花が受粉するためには花粉を雌しべまで運ばなければならない。
一般に知られている方法は昆虫や鳥などが花蜜を求めて花粉を媒介する虫媒介や鳥媒介であるが、ヤマモモの木は、花粉を風に運ばせて受粉を行なうので、風媒花とか風媒樹木と呼ばれる。
花粉を数キロも数十キロも飛散させ受粉を行なっているのである。

【山帽子(やまぼうし)】
~2009年5月号より

ミズキ科ミズキ属ヤマボウシ亜属。
本州から九州、および朝鮮半島、中国に分布する落葉高木で高さ十メートルほどになる。
五月頃に花をつける。花は淡黄色で小さく、多数が球状に集合し、その外側に白色の総苞片が四枚あり、花びらのように見える。
中央の花穂を坊主頭に、四枚の白い苞(ほう)を白い頭巾に見立てて、比叡山延暦寺の山法師になぞられて、この名前が付けられたといわれる。
果実は集合果で、九月頃に赤く熟し、直径一~二センチで球形、食用になる。
果肉はやわらかく黄色からオレンジ色をして、マンゴーのような甘さがある。果皮も熟したものは甘く、シャリシャリして砂糖粒のような食感がある。
果実酒にも適している。
最近、庭木や街路樹として流行っているアメリカハナミズキとは近縁種であるが、ハナミズキは、葉の出る前に花が咲き始め、花びらの先端が潰れてハート型、果実は集合果にならず、個々の果実が分離している。
ヤマボウシは、葉が出揃ってから花をつけ、花びらの先が尖ってダイヤ型である。開花時期はヤマボウシが一ヶ月ほど遅い。
県内にも、天山・背振山系や多良岳山系の谷筋に多く自生しているが、遠くからヤマボウシの木を見つけても、ヤマボウシの花は葉の上に咲くので近くで樹木を確認するのは簡単ではない。
この木は上から眺めるのが良い。
平成十七年の五月二十六・二十七日に「第八回九州ブロック介護老人保健施設大会」が宮崎で行なわれた。
その帰りに綾の照葉大吊橋を訪れた。
当時は、歩く吊橋としては世界一位であった。
橋の上から見下ろすヤマボウシ(写真)は雪が積もっているかのように見事だった。
春庵には、五本のヤマボウシと一本のベニヤマボウシがある。その中の一本は介護職のYさんの退職記念樹である。
Yさんは医療法人を退職の後に春庵に嘱託雇用として勤められたが、高齢と体調不良で昨年九月に退職となった。
春庵に思い出を残したいと植樹の話になり、苗木の手配や植栽を入所利用者Sさんのご家族がお手伝いされた(Z)

【山桜(やまざくら)】
~2009年4月号より

我が国に自生する野生の桜の代表で、バラ科サクラ属の落葉高木である。
サクラというのは総称で、サクラという名の植物はない。
山野に自生する野生種は約三十種類あるといわれ、その中でも代表的なものがヤマザクラ、オオシマザクラ、エドヒガンである。
園芸品種は数百種類もあり、その代表がソメイヨシノである。
ソメイヨシノは、江戸時代の終わり頃に東京巣鴨近くの染井村で、オオシマザクラとエドヒガンを交配して作られたもので、実をつけない一代木で、すべて接ぎ木で作られている。
桜ほど日本人の心をひきつける花は少ない。
寒い冬を耐え、柔らかな春の陽を浴びて咲き、散り際の潔さに人のはかなさを想うのだろう。
本居宣長の歌「敷島の大和心を人問はば朝日に匂う山桜花」は神風特攻隊の最初の部隊が「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」と名付けられた悲しい歴史もある。
絢爛と咲き誇るソメイヨシノも良いが、私は清楚な花を咲かす山桜が好きである。
山桜は、樹姿も美しいし、木肌も良い。
木材は高級家具材や楽器材・また香りの強い燻煙材(スモークチップ)として人気が高く、樹皮は樺細工や草木染めにも利用される。
春庵の庭には六本の山桜を植えた。
その後、春庵事務室のうば桜二人(怒らないで下さいね。本来うば桜とは、娘盛りを過ぎても美しい女性のことで、誉め言葉なのです。)が六本の幼木を入職の記念樹として植え育てておられる。
大きく成長するのが楽しみである。
数年前、仕事帰りの車のラジオから流れる朗読に感動をした。
藤沢周平の時代小説「山桜」だった。
短編集「時雨みち」の中の一編であるが、主人公野江の心の動きと山桜を取り巻く景色が見事に描写されていた。
それがきっかけとして藤沢文学にのめり込んでしまった。
この「山桜」は、昨春に田中麗奈・東山紀之主演で映画化されている。
里山の所々にうっすらと霞がかかったように山桜が見える。
西行法師は、「願わくは花の下にて春死なむその如月の望月のころ」と詠んでいるが、まだ死ぬところまではいかないまでも、花の下で静かに寝そべっていたいものである。
しかし、この時期は、期末と期首の雑務に追われ、ゆっくりと花を愛でるゆとりが無いのが悲しい。
「しばらくは世事追いくるな花のもと」(Z)

【杏(あんず)】
~2009年3月号より

中国原産のバラ科サクラ属の落葉小高木である。
奈良時代に梅とともに我が国へ渡来したと言われる。
英名でアプリコットツリーと呼ばれる。
花はウメやサクラに似た淡紅色の五弁花で、開花はウメとサクラの間、三月の上旬頃である。
果実(アプリコット)は六月頃に熟し、生食出来るが、ジャム、シロップ漬け、干しアンズ、果実酒に加工されることが多い。
最近は杏露酒(シンルチュウ)を好んで飲む女性も多く見られる。
種子は杏仁と呼ばれる生薬で、鎮咳、去痰薬として配合され、杏仁水や杏仁豆腐の材料としても使われている。
昔、中国の呉の国に董奉という医者がいて、貧しい人からは治療代をとらず、かわりに杏の苗を植えさせた。
やがて家の周りは杏の林ができた。有名な杏林伝説である。
杏林は名医をさす言葉になっている。
また、中国の思想家孔子様は、杏の木の根本の少し高くなったところ「壇」で、弟子達に教えを説かれたので、学問所のことを杏壇(きょうだん)と呼ぶようになったと伝えられ、我が国でも江戸時代の学問所には杏の木が多く植えられていた。
現在の学校の教室にある教壇の語源にもなっている。
しかし、残念なことに最近の教壇に高さは無く、生徒達と同じ高さの床になってる。
それだけ先生達が尊敬されなくなったのだろうか(Z)